2010年11月12日金曜日

『変えてよいもの』と『変えてはいけないもの』

このところメンターM氏と密度の濃い時間を
共有させていただく機会が続いている。
昨日は銀座でお昼ご飯をごちそうになった。


その中で次のようにとても示唆に富んだお話があった。


『会社には「変えてよいもの」と「変えてはいけないもの」がある。
「変えてはいけないもの」とは、一旦変えてしまうと、
もうその会社でなくなってしまうもののことだ。』




「変えてしまうとその組織ではなくなってしまうもの」
とはなんだろうか?考えてみたい。






生物の遺伝子には種固有の情報が組み込まれたデータシートがある。
それがDNAだ。DNAは「生命の設計図」と呼ばれている。


遺伝子はDNAが複製されることによって次世代へと受け継がれる。
親から子へ、子から孫へ、ほぼ正確にその情報は引き継がれる。


人間で例えると、目は二つ、鼻は一つ、腕と足はそれぞれ二本、
といった基本的な情報だ。


近年、遺伝子組み換え作物が問題になっているが、
それらはこの「生命の設計図」を人間の手で直接書き換えたものだ。


極度に寒さに強い麦や、異常に大粒のトウモロコシといったものが、
すでに大量に生産され、我々の食卓に届いている。


(調べてみて驚いたのだが、ウィキペディアによるとすでに
全世界の大豆作付け面積の77%、トウモロコシの26%、ワタの49%が
遺伝子組み換え作物となっている。)


この技術を活用すれば、もっとさまざまな生命を作り出すことができる。
例えば生産性を100倍にした稲ができれば食糧問題は解決できるかもしれない。
鯨のような大きさのマグロができれば、大トロの値段はもっと下がるだろう。


けれど、それらはもう稲でもマグロでもない。
稲のような別の植物であり、マグロの味によく似た化け物なのだ。
このことは理解してもらえると思う。


人間に例えればもっとよくわかる。遺伝子操作によって、
チーターのような速度で走れる兵器人間や、
高等数学を瞬時にこなせるコンピューター人間をつくったとして、
それらを我々の子孫だと考えることができるだろうか。


私の答えは否だ。
DNAを変えてしまっては、もうその生物とは言えなくなってしまう。
だからこそ、生物にとってDNAは変えてはいけないものなのだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・


では、組織にとって変えてはいけないもの(=DNA)とは何だろうか。
それは創業者、経営者、あるいは従業員といった
「個」を超えたところにあるある特別な「想念」だ。


極論だが、経営者や社員はかえても組織は組織たり得る。
けれど、その特定の「想念」を変えればもう、
その組織ではなくなってしまう、組織にはそんな「想念」がある。


ソニーも、ホンダも、パナソニックも、
創業以来、経営者は何人も変わってきた。
しかも創業者一族ですらない。


それでもソニーはソニーだし、ホンダはホンダだ。
社名は変わってもパナソニックはやはり松下だ。


理念や社是と言った言葉はその「想念」に付けられた
タイトルのようなものなのだろう。


創業時より日々の小さな「決断の連続」が組織の歴史を作ってきた。
その決断に伴うさまざまな思いの積み重ねが「想念」を生み出していく。


組織には生物と異なり、初めから明確な「生命の設計図」はない。
さまざまな経験を積み重ねていく中で、自ずから発生してきたものだ。


例えば音楽であれば「リズム」、絵画なら「タッチ」。
それこそが組織のDNAだ。


それは、意図せずとも「自己表出」してしまうもの。
そのように、DNAが自己表出し、
体現化されているものが「らしさ」と呼ばれるものだろう。


DNAは普段は目には見えない。
目には見えないからこそ、はっきりと言葉にして伝えにくいものだ。

組織のDNAは、もちろん創業者の生き様の影響を濃厚に受けている。
それをトレースすることなく、理解することは不可能なくらいだ。
けれど、それだけだとは言えないもの。


組織に関わるさまざまな人たちの中で、
交わされてきた数え切れないコミュニケーション、
その中で生じた喜怒哀楽や愛憎。
それらが全部ないまぜになって、
壮大な時代絵巻、大河ドラマを織りなしているのが組織の歴史だ。


その歴史の中からにじみ出ている「想念」こそがDNAなのだ。
だからこそ、組織の歩みを丹念に振り返ると、
かならずある「感慨深い想い」にかられるのだろう。


本来、ちょっとやそっとでは、かわらないもの。
いや、変えたくても変えられないもの。
それこそがDNAと呼べるものだ。


けれど昨今、遺伝子組み換え作物のように、
「変わってしまった」組織をよく見かける。


生き残るために(=利益を確保するために)、
組織そのものの「生命の設計図」に手を入れてしまっては、
もう元の生命体ではなくなってしまう。


八百屋さんがコンビニに変わる。
老舗旅館が高級ホテルに変わる。
レンタルビデオチェーンがネットコンテンツ屋になる。


それらはすべて業態の変化であり、適者生存のための変化だ。
けれど、その変化の末に生き残れるかどうかは、


その大変革の中にあっても、
『変えてはいけないもの』を持っているか、どうか。
『変えてはいけないもの』を理解しているか、どうか。
『変えてはいけないもの』を変えずにいられるか、どうか。


そこにかかっているように思えて仕方がない。


『強い種が生き残るのではない、変化に適応できた種が生き残るのだ。』
とは、経営論でよく用いられるダーウィンの言葉だ。


けれど、変化に適応するためにDNAまで書き換えてしまっては、
もうその組織はその組織でなくなってしまう。


経営環境が波のように常時変動している現代において、
組織は常に変態を余儀なくされる。


その中にあって経営者に求められる力は、
『変えてよいもの』と『変えてはいけないもの』を
見極めることができる力なのではないだろうか。

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